何はともあれ42.195km

前述のとおり、足裏炎の心配もあったが、友人も出ることだし、走られるところまで走ろうと思ったのだ。
これが後から考えると、浅はかだったのだが。

ちなみにコースマップを見ながら読んでもらえると、話が見えると思うので、リンクしておく。

現地入りすると大勢のランナーが集まっていて、それだけでワクワクしてしまう。
レースってこの高揚感がいいんだなぁと再認識。
着替える時に、長袖にするか、半袖にするか悩んだけれど、長袖をチョイス。
日焼けを気にしたのではなく、走れなくなった時に、寒くなるかもしれないと考えたのだ。
結果として、この選択は正しかった。

僕のスタートはFブロック。
最も遅いランナーが揃っているブロックで、周囲には着ぐるみの人も多かった。
正規のスタートゲートにたどり着くまで7分もかかってしまったが、何とかスタート。
周囲はかなり遅くて、キロ6分よりもゆっくりペース。
普段の僕なら前に飛び出していただろうが、今回は足の様子を伺いながらだったので、10kmまでは本当にジョギングペースだった。
比較的気持ち良く走れていて、テーピングとコンプレッションソックスが良かったのか、足底炎も表面化していない。
違和感はあるけれど、はっきりとした痛みにはなっていない感じなのだ。

練習不足でスピードには乗れないけれど、まぁ何とかなるかな?と思いつつ、15kmくらいまで大きなトラブルはなかった。
実は競技を中止する一つの目安がこの15km過ぎだった。
ちょうど、海響メッセ下関から東へ進み、再びスタート地点まで戻っていたからだ。
ここからは徐々に北上する、タフなコースとなるのは判っていたが、まぁ、もう少し大丈夫だろうと考えてしまったのだ。

しかし、21kmを越えたくらいから徐々に膝や筋肉の痛みが出てきた。
ペース的には2時間10分くらいだったと思う。
そんなに飛ばしていないし、左足を庇うような走り方はしなかったつもりだけれど、身体は正直だ。

ちょうどこの辺りから彦島のアップダウンに差しかかり、歩く人も増えてきた。
僕は基本的にマラソンは走る競技だと思っているので、歩くのは潔しとしない。
少しくらい脚が痛くても、給水所で脚に水をかけながら走り続けた。

そして、26km手前の給水所でやはり脚に水をかけていたら、右のシューズが汚れていることに気付いた。
赤い塗料が染み込んだような汚れで、何だろう?と思ってしばらくして、内側から染み出ていることに気付いた。
給水所まで逆走し、救護所を尋ねると3km先だと言う。
そこまで走るのかよ!と思ったけれど、絆創膏などの簡易的なサポートグッズはあると言う。
おそらく爪のトラブルと思ったので、ボランティアの手を借りてシューズを脱ぎ始めた。
自分で脱ごうとしても、前屈みになると腹筋が攣りそうになるし、脚も痛い。
恐縮ながら脱がしてもらい、次にソックスを脱がそうとしたが、これがなかなか脱げない。

女の子が二人がかりで何とか脱がしてくれたが、見ると足指が血だらけ。
そのままではどこが傷なのかも判らないので、ペットボトルの水で洗ってみた。
すると、爪の一部が指に当たって、指の一部が切れていた。
爪が割れたのではなかったので、何とかなるだろうと思い、絆創膏を貼ってもらって応急処置とした。
それにしても彼女たちも災難だっただろう。
削れた皮膚など血染めの組織がへばりついているのを見たときは、明らかにドン引きだったのだ。
再出発するときは、もちろんお礼を述べたが、悪いことをした。

そこからは長州出島までが相当きつかった。
とはいえ、もうここまで来たのだから、何とか端まで行ってみようというのが一つと、走っていたら途中で楽になることがあるので、身体が限界を突き抜けるかな?と甘く見ていたのだ。

この出島には救護所の他に充実したエイドステーションがあった。
ここまで給水給食以外は歩かずに来たが、さすがに救護所で足を止め、横になって脚を冷やした。
氷が用意されていたので、それをビニール袋に入れて、脚に置くのだ。

この時点でかなりヤバいなと感じ始めていた。
しかし、まだ3時間くらい時間が余っているし、残りは12km少々。
普通ならどんなにゆっくり走っても1時間半で走り切れるが、さすがにそれは無理だろうと判った。
疲れというよりも、痛みが出始めていたし、右足も左足も負傷しているのだから、リタイアも考えた。
しかし、リタイアバスに乗ってしまうと、帰着が15時過ぎになってしまう。
友人たちを待たせることになるので、少しずつでも、それこそ這ってでも前に進もうと思って走り始めた。

ここでは僕の好きな「菊川の糸」がそうめんを出してくれていて、その塩味が疲れた身体に染みた。
以前にも書いたけれど、僕は毎年、夏の始めに「菊川の糸」を9kg、実家に送っているのだ。

最初の異常は30kmを過ぎた辺りだったかな。
左のふくらはぎがビクビクッと痙攣した。
幸いコンプレッションの効いたランニングタイツを着用していたので、走りから歩きに代えると痙攣は止まった。
もしかして、このまま疲労を突き抜けることなく、痛みが蓄積されるのか?と不安になり始めた。
しかし、それでも脚を止める訳にはいかない。
ついに上り坂では全く走れなくなり、下りで軽く走っていたら、やはり左が痙攣する。
ストレッチをしても、糖分を補給しても、全く痙攣が治まらないのだ。

仕方がないので、なるべく早足で歩く。
これ以上、早く歩くと痙攣するというギリギリのラインで歩き続ける。
キロ11分ペースだったかな。
このペースでもヤバいくらいだった。

何とか誤魔化し誤魔化し、力が戻って来たら走り始めようと考えつつ、残り5kmの地点まで来てしまった。
さすがに焦りも出てきて、このペースではたった5kmに1時間以上かかってしまう!と思い、再度、走り始めた。
すると、やはり左のふくらはぎに、今度は絶望的ともいえる痙攣が襲ってきて、コースアウトしてしまった。
縁石に座り、マッサージしようとするが、上から体重がかかっていないと余計に痙攣が酷くなる。
仕方がないので立ち上がって体重をかけつつマッサージを行う。
それからしばらくセルフマッサージを続けたが、本気でリタイアを考えた。
その場に収容バスがあったら、間違いなく乗り込んでいたと思う。
しかし、僕が座り込んでいる間にも次々とランナーが通り過ぎて行く。
彼らに出来るのだから僕だってもう少し!と自分を鼓舞して歩き始めた。

この後は歩くことすら難しくなり、一歩一歩に歯を食いしばるほどの痛みが続いた。
徐々に膝から下の感覚が麻痺してくるが、痛みが消える訳ではない。
隣を軽やかに脚を上げて走るランナーが通り過ぎると、すごく羨ましかった。
もう僕は足を10cm上げて下ろすことすら難しくなっていたのだ。

沿道の人たちは、どうしてあの人は歩いているのにあれほど苦しそうなのだろう?と不思議に感じただろう。
周囲からは怠けているように見えただろうが、僕は僕なりに必死で戦っていたのだ。

結局、最後まで脚が復活するどころか、蓄積する疲れと痛みに苛まれつつ、42km地点まで来た。
残り200m。
僕は最後の最後はぶっ倒れても構わないから走ろうと思っていたので、両手を大きく振って何とか脚を動かした。
ラストスパートにはおこがましいレベルだが、何とか最後だけは走ることができた。

完走タイムは5時間40分。
フルマラソンのタイムとしては散々な記録である。
完走というか、とりあえず42.195kmを自分の脚だけで移動したことには達成感があったけれど、タイムには大いに不満が残った。
とはいえ、今のコンディションを招いたのも、走り込みが足りていないのも自分である。
走った距離は裏切らない。
僕以外の2人は4時間30分と、4時間16分という素晴らしいタイムだった。
特に大ちゃんは初フルで4時間16分という快挙。
彼は元々僕よりも身体が丈夫というのもあるけれど、月間200km近く走っていたので地力が付いていたのだ。

ゴールすると緊張感が切れ、痛みが一気に襲ってきた。
上半身もあちこちが痛いけれど、壮絶なのはやはり両脚。
10mの移動も億劫だし、15cmの段差を越えるのでさえ悶絶しなければならない。
タイツを脱ぎたかったが、更衣所までの移動が億劫で、脱いだり着たりが困難なので諦めた。
自分の脚が自分の思うように動かないというのは、本当に不便なものだ。
障害を持つ人は毎日がこんな状態なんだ、とそのつらさが少しだけ判った。

その後はサイクリング組の友人たちと合流し、遅い昼ご飯を食べて帰路についた。
朝3時に起きて、7時に下関入りし、8時30分から競技を開始し、自業自得ではあるけれど5時間以上運動を続けていたのだから、食べたら眠くなるだろうと思っていた。
ところがどっこい、脚が痛くて痛くて、全然眠くならないのである。
まぁ、運転手のネコ吉さんとお喋りができたから良かったけれど、これって治るのか?というレベル。
地力でビールを買いに行くこともできないので、コンビニ経由でビールを購入して帰宅。

身体が潮を吹いていたので熱いシャワーを浴びてさっぱりし、下松SAで買った鶏肉の炭火焼でビールを飲んだ。
おそらく極度の運動のためだろう、あまり量が食べられなかったし、味覚も変だったが、少し無理に詰め込んでベッドに入った。
脚には大量にサロンパスを貼ったが、疲れが酷くてなかなか眠れない。
なぜか妙に寒かったのでストーブで部屋を暖めると、どうにか眠ることができた。

それなのに翌朝はパジャマがぐっしょり重くなるほど寝汗をかいていて、自分にその記憶がないことに驚いた。
たぶん、代謝がおかしくなっていたのだろう。
一晩経つと、どうにか15cmくらいの段差なら平然とした顔で越えられるようになったし、少しは歩けるようになったけれど、下り階段は手すりに掴まらなければならなかった。

とはいえ、3日後にはかなり回復し、これを書いている6日後は日常生活に痛みを感じないレベルまで戻っている。
週末はウォーキングと軽いジョギングでリハビリしようかな?と考えている。

それにしてもフルマラソンって1年に1回で十分。
そこに目標を定めて、しっかり練習しないととんでもないことになる。
身を持って学んだが「下関海響マラソン」には、できれば再び出場したい。

エイドが充実していたし、声援がとても多くて励みになった。
往路だけでなく、復路でも声援が減らなかった。
おそらく5時間以上声援を送り続けてくれている人たちがたくさんいた。
私設のエイドや塩をどうぞという女性もいた。
コースは後半に坂が続くハードなものだが、住民の方々の温かさがとても嬉しかった。
正直、後半は走りたくても走れなくて、声援に応えることができなくて、不甲斐なさに唇を噛んだのだけれど、それは僕の問題である。

次は2月の香川丸亀国際ハーフマラソンだ。
こんな体たらくでは、昨年の1時間47分を上回る記録は望めないだろうが、何とか楽しんで走れたらと考えている。

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