僕はランナーであり続けたい

先日「それだけ走っていたら仕事に差し支えありませんか?」と問われた。
僕はそれに対して直接は答えず、走っていなかった10年前と比べて、僕の体力は確実に向上しているよと回答した。
その辺りのことは以前「体力という貯金を増やす生活と減らす生活」で書いた。

すると「僕も走りたいのですが時間がなくて」と言う。
僕は面倒臭いから何も答えなかった。
時間なんて作り出すんだよと言ってみたところで、今度は「古傷の膝が痛むんです」とか言うに決まっている。

要は言い訳をしているだけなのだ。
しかもそれは僕に語る形をとりながら、実際は自分に対して言い訳している。
本当は走るなり何なり、運動をするべきだと考えている、その自分自身に対する言い訳だ。
そして当然だが、自分のことだから心のどこかで「やりたくない、やらない理由をこじつけているだけ」であることも理解している。
それが全て透けて見えるから、要はキミの独り言だろ?と判っているから僕は黙る。

走り始めてしばらくは、仕事にも遊びにも、何よりも人生の全てに素晴らしい学びがあるこのスポーツを多くの人に勧めた。
しかし、今はもう勧めたりしない。
僕もやっと判った。

村上春樹さんは「走ることについて語る時に僕の語ること」の中で端的に述べている。

人は誰かに勧められてランナーにはならない。
人は基本的には、なるべくしてランナーになるのだ。

僕はあらゆるスポーツの中で、最もプリミティブで、最も手軽で、最も哲学的なスポーツの一つだと思う。
同書で村上さんは、ランニングの本質は生きることのメタファーだと看破している。

同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。
与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることのメタファーでもあるのだ。

最初に書いた、彼の問いに答えるならば、実はランニングは仕事にも効く。
だが僕は決して、仕事にも役立つから走れとは言わない。
そんな卑近な動機で始めても続かないのは明らかだ。

ランニングは人生を豊かにする。
このことに気付くことができた人は、なるべくしてランナーになる。

そして、ランナーとは、生活の様式、習慣、人生観、価値観を含めた、生き方を包含した言葉だと僕は考えている。
走る習慣がある人、という意味ではない。
ランナーというライフスタイルを選んでいる人、という意味なのだ。

つまり、
(ランナーならば)何を食べるのか?
(ランナーならば)どんな服を着るのか?
(ランナーならば)目的地までどうやって移動するのか?
(ランナーならば)何時に寝て、何時に起きるのか?
(ランナーならば)単なる懇親会や宴会にどれだけ顔を出すのか?
ということでもある。

村上さんは墓標に刻む言葉を選べるならば、こう書いてほしいと述べている。

村上春樹 作家(そしてランナー) (生年~没年) 少なくとも最後まで歩かなかった。

繰り返すが、ランナーとはライフスタイルであり、生き方そのものなのだ。
僕はこれからもランナーであり続けたいと考えている。

このページの先頭へ